友人との別れに際して

 先に断っておきますが、今回の話は明るい話題ではありません。明るい話題やPresentatin Strategyをお求めの方は、別の記事をご覧下さい。
 内容も完全に私事ですし、ブログに残すのが適当なのかも分かりませんが、とにかく感じた事をそのまま、こちらに書き残そうと思います。


 4月27日、中学以来の友人がこの世を去りました。これまでも曾祖母や恩師、同窓生を亡くしたことはありましたが、特に親しかった友人を亡くすのは、今回が初めてです。そのお通夜が、30日に行われました。
 彼とは、亡くなる前日にも顔を合わせていました。お互いの進路について短く言葉を交わして、お互い頑張ろうと笑って励まし合って別れました。その彼が、もう動かなくなって目の前に横たわっているのが、酷く非現実的でした。つい数日前に会った彼と、その時目の前に横たわっていた彼は、まるで別人の様な気すらしました。生気が無くなっただけで、人の印象はああも大きく変わるものなんですね。
 「一寸先は闇」という言葉がありますが、今回ほどこの言葉の意味を深く感じた出来事はありません。もしかしたら私達は皆、穴ぼこだらけの大地を目隠しをしたまま歩いていて、一歩でも歩みを間違えれば、もう誰にも手の届かない奈落の底に吸い込まれて消えてしまうのかも知れません。つい数日前まで顔を合わせていた人が、突然居なくなってしまった現実に、まだ思考が追いついていない気すらします。彼はどんな事を考えながら日々を生きていたのか、最後の時に何を思ったのか、もう二度と知る機会は無いことを理解しつつも、つい思いを馳せてしまいます。彼が生きていた頃には気にも留めなかった事に、今更頭を回しているのですから、まあ薄情な話です。


 20年とちょっと生きてきましたが、自分にとって「死」はまだ非現実的な代物でした。実際に友人の死に直面した今ですらまだ現実味を帯びていなくて、そんな自分に少し苛立っても居ます。何か狂った宗教に心酔していたなら、どんなにか楽だったろうとも感じてしまいます。
 「死」という未知と対面した今、彼という存在が一体どうなっているのか、私には良く分かりません。昔読んだ哲学の本に、人の同一性とは、肉体と精神の連続性によって成り立つというフレーズがあったような気がします。亡くなってしまった彼は、肉体的には間違いなく、生前の彼から連続したもので、同一でした。では彼を形作っていたもう一つ、精神は、まだ連続性を保っているんでしょうか。もう二度と目を開けることのない彼の精神は、あるいは死の瞬間に消えたのでしょうか。魂というものが体から抜け出て、極楽に飛んでいったのだという教えを信じられれば、或いはこのモヤモヤは消えるんでしょうか。けれどそれは私には、無条件で受け入れられる様なものではありません。ナナシの神様は、沈黙したまま何も語ってはくれないので、きっと私に教えるべきことは何一つないって事なんでしょう。


 死について、こんなにも自分は無知でした。それを急いで取り返そうとすると、危ない道を進んでしまいそうなので、彼が居ない日常を過ごしながら、急がずに向き合って行こうかなと思います。
 人は死ぬ。20と数年の今までの人生の中で、その事実を最も身近に感じた4月の終わりでした。